保革・新舊と國語 ―― 連載三


中 村  保 男    



  早、この連載も年を越えて三囘目になつてしまつたが、標題にあげた主題にこれまでほとんど觸れることができなかつた。あまりにも大きな、あるいは解りきつた問題なので、あらためて論じるには及ばないのではないかと考へてゐるうちに日時ばかりたつてしまつたのである。
  そもそも「保革」といふ用語が早くも古びてしまつた。「保革逆轉」とか「保革伯仲」といつた言葉がよく使はれたのは、もう一昔前のことのやうに思はれる。では、「保革」の對立は、事實上完全に日本から消えてしまつたのか、と言ふと、「保革」といふ表現こそ使はれてゐないものの、實質的にはそれに相當する現實は嚴存してゐるのである。
  資本主義・對・社會主義のイデオロギー對立に取つて替つて登場してゐるのが、「グローバリズム」と「反グローバリズム」の對立であり、前者はかつての「資本主義」に、後者は「社會主義」に、それぞれ相當する、と見ることができる一面がある。
  米國がグローバリズムの旗頭であり、かつては米國と敵對關係にあることが多かつた中國もグローバリストであることは今や明らかであり、日本は米國を採るか、中國を採るかといふ二者擇一のなかでは、グローバリズム・反グローバリズムにたいする選擇の餘地はない。それにもかかはらず、米でも中でも正反グローバリズムでもない第三の道をもし歩むことができて、複雜に入り組んだ國際關係を安定させる勢力たりえたならば、それに越したことはないのだが、現實には「親米」と「親中」といふ二派があつて、たびたび對立してゐるやうに見える以上、そこに一つの大きな、と言つても、かつての對立よりは幾分か緩和された對立が存在してゐることは否めない。
  それと同時に、世界には反グローバリスト國家や集團もあり、日本はそれらとの關係においては、今さらそれら反グローバル勢力の側にはつけないほど科學技術立國の立場にある。
  ここで科學技術すなはち情報技術と解すれば、日本がその立場を棄てない限り、そしてその科學技術が電腦を主體としたものである限り、國語は簡單に電腦に入力できるはうがよいといふことで、歴史的假名遣ひはますます遠ざけられ、入力し易い現代仮名遣いを恆久化する道を選ぶのが得策だといふことになつて、その恆久化がいはば「法制化」されてしまふのが落ちだらう。
  だが、言葉は電腦のためだけに使ふものではない。それに、情報技術文明が人類の到達する究極の文明であると斷定することはとてもできない。假にさうだとしても「現代かなづかい(現代仮名遣い)」といふ、誕生以來、いや、捏ち上げられて以來七十年も經つてゐないその場凌ぎ的な言語「不システム」を、生活の全部にわたつて使へと責任をもつて命令できる政治家は、もし本當に問題をつきつめた上で下令するとなつたら、一人もゐないはずだ。
  言葉は單なる記號ではない。「でしよう」と「でせう」は同一音韻を表す別々の記號であり、記號は任意に變へることができるので、「でせう」を「でしよう」に變へても、發音が正確になつただけで、日本語そのものが變つた譯ではない、と言ふ人は、五十音圖といふものを、日本かな文字の集大成とは見ずに、發音記號表と見誤つてゐるのである。「でせう」は三文字から成り、「でしよう」とは違つた「語」として見えもする「もの」として存在する言葉なのである。アルファベットと五十音圖の働きが全く異ることを把握することから、日本語の正しい理解が始まるのである。

  土屋道雄氏は、新聞で使はれてゐる文字のうち、歴史的假名遣ひに改める必要のある假名遣ひは全體の2%にすぎず、しかも、そのうちの約半分は、「ゐる」や四假名や「は」行四段活用の覺え易い歴史的假名遣ひによつて占められてゐる、と貴重な調査結果を發表してゐる。
  それにたいして、或る分らず屋は、たつたの2%なら、歴史的假名遣ひに戻さなくても、今のままでよいぢやないかと言つたので、私は、さういふ君は、純度100%の液體があるのに、純度98%のでよいと言ふのか、と逆ねぢをくわせたら、相手は沈默した。

  英語は一字一音だから合理的だ、といふことで、國語改惡派は、假名を一字一音とすることによつて「合理化」を圖つたが、その英語が實は一字一音にあらざることを示す逸話がある。ほかでもない、この連載の第一囘に豫告しておいた「fish は ghoti と同音である」といふなぞなぞめいた命題である。
  先づ、enough の語尾、gh は「f」と發音され、women の wo は「wi」、從つて、fi は gho と綴つても音は同じだと言ひ張ることができ、最後に nation の ti は sh と同音なるがゆゑに、ghoti は fish と同音なり、と英國の名物劇作家バーナード・ショーが指摘した、と上西俊雄氏が出典は不確定だがと斷りつつ「教育新聞」に紹介してゐる。
  ショーは英語の綴り方を改良しようとして、自作の戲曲中でも、isnt や havnt などの簡略綴りを使つてゐるのだが、さすがに、soldier を soljar と綴り替へるやうな愚は犯してゐない。その愚を犯したのが日本の「綴り方」すなはち「假名遣ひ」改良家たちだつたのである。生徒は教師を模倣するのだが、教師が囘避した間違ひも囘避すべきなのである。

  またまた標題にあげた主題からいささか逸脱したが、ここで再び政治・經濟的必要のために國語を枉げてまで奉仕することが巨視的に見て賢明でないことを強調しておかう。昨年、政府機關より刊行された『国語施策百年の歩み』といふ册子に次のやうな部分を含む卷頭言を寄せてゐる文化廳長官の挨拶が、單なる「外交辭令」であることを望んでやまないものである。


  近年の国語施策は、国際化・情報化など新しい時代状況への対応の指針を打ち出し、(中略)今後も時代や社会の状況に応じてその(國語の)望ましい在り方を検討し、それを実現するための施策を実行していくことが必要です。

  國語の在り方は、その基本すなはち假名遣ひの根本原理さへしつかり確定されてゐれば、個々の具體的・技術的問題は、現場または現場に直結する機關が解決すればよいことであり、あとは、カタカナ語の氾濫にたいして防波堤でも築くことに力を注ぐに限る。
  言語政策などといふものは、出番がないはうが健全なのである。それよりも、明治時代にやつと整理統合されたばかりの假名遣ひの基礎がためを着實に行ふことのはうがよほど建設的である。通常國語では對處できないほど科學技術が根元的に複雜化したあかつきには、技術記號のやうな補助言語でも、第二國語的なものとして、ないしは、それこそ國際的にも合理的な普遍語として、制定すればよいではないか。
  國語問題は政治問題であつて政治問題ではない。 文化は、文化交流と言つたかたちでは政治に隸屬するものであつても、本來の意味では政治の外にある。と言ふより、すべての政治が、廣義の文化には呑みこまれてしまふのだ。文化と政治は次元を異にしてゐるのである。ひとたび國語問題が完全に意圖的に政治問題と化するや、それは最も致命的な政爭の具とされてしまふ危險が存するのではあるまいか。

(本連載はひとまづこれをもつて完結とする)  


(なかむら・やすを。飜譯家・評論家。國語問題協議會會員、日本文藝家協會會員。現代演劇協會理事。新著に『絶對の探求――sc恆存の軌跡』(麗澤大學出版會、平成十五年八月刊)『英和飜訳の原理・技法』(日外アソシエーツ株、平成十五年三月刊)がある。本文の著作權は筆者中村保男が保有する。無斷轉載を禁ず)