保革・新舊と國語 ―― 連載二



中 村  保 男    




   まづ、前囘(第一囘)の不備な點について、お詫びすると共に修正を施しておく。
   〈痔〉は〈ぢ〉と假名表記するのは正しく、しかもさうするのは日本人の「血」のなせる業であり、學習によるよりもむしろ本能の働きに負ふところが多い旨を記したのだが、少々神がかつたこの説は、第一に痔藥の本鋪「□□堂」の新聞廣告がでかでかと「〈痔〉は〈ぢ〉と平假名書きして下さい」と折に觸れて宣傳してゐるといふ事實によつて妥當ではないことが分り、第二に〈痔〉を〈ぢ〉と表記すること自體が必ずしも正しいとは限らず、「かう」を音とする〈尻〉の訓の第一音 〈し〉が濁つた〈じ〉が正しい假名表記だとする説もある以上、根本的には疑ひの餘地ある未決事項として扱ふべきものなのである。
   だが、少々自己辯護めくが、もし上の問題に學問的な決着をつけることができなかつたならば、その時には、〈痔〉を〈ぢ〉と假名書きすることをもつて正規の表記法とすることを、次の論據によつて、私は主張したい。
   〈尻〉の〈し〉は濁音化すれば〈痔〉の表音文字になる上に、〈痔〉の旁である〈寺〉は〈じ〉と音讀みできる。 したがつて、〈痔〉の讀み方を〈じ〉とする理由は二つあることになる。これは、〈痔〉=〈じ〉説の有力な論據となりうるが、それだけでは、〈痔〉=〈ぢ〉説を覆す充分な理由にはならない。なぜならば、〈寺〉の訓讀みの第一字〈て〉はタ行の字であり、〈寺)を旁とする〈痔〉も、やはりタ行の〈ち〉を濁音化した〈ぢ〉と假名表記することができて、しかも〈尻〉とほぼ同義の〈臀部〉もまた第一字はタ行の文字〈で〉によつて表記されてをり、さらには、〈血〉の訓が〈痔〉の讀みとなつたとする説もある以上、すでに記した關連づけ以外の關連が見出されない限りは、〈痔〉=〈じ〉説よりも、〈ぢ〉説のはうが多くの點で、音韻的にも文字上でも關連づけが可能な選擇だからである。
   結論   〈ぢ〉 か 〈じ〉 のいづれを選ぶべきかといふ問題が改めて浮上してきたならば、現在すでに歴史的假名遣ひとして認められ、用ゐられてゐる前者を再公認すればよい。


   どうも四つ假名の問題ばかりにこだはるやうだが、それは國語を正常化する上で先づ解決しなければならぬ重要な點の一つであつて、しかも私のやうな初心者にも把握できる、とつつきやすい問題だからである。
   そこでもうひとつ、今度は〈頭〉の音讀みのひとつである〈づ〉を國語辭典では未だに〈ず〉としてゐることを指摘しておく。
   頭巾、頭(が高い)、龍頭などがそれで、もちろん、頭腦や、頭痛など、もつとありふれた句のおそらく全部の〈頭〉の見出し語が〈づ〉ではなく、〈ず〉となつてゐる。その點だけに問題を限れば、これは現代表音主義を原理とした用法を一貫させたもので、その限りにおいては、それなりに筋が通つてゐると言へるのだが、前囘に指摘したとほり、〈頭〉または〈頭〉を一要素とする句以外の句あるいは複合名詞では、「ず」を正假名表記の〈づ〉に戻してゐる例が多いのだから、不統一、非論理、不合理のそしりを免れまい。
   念の爲に、ここに再びその例の一つをあげれば、〈愛想がきること〉を意味する〈愛想かし〉を當初には〈愛想ずかし〉と表記しておきながら、新しい版では何の斷りもなくこつそりと〈ず〉から〈づ〉へと正統表記に先祖返りさせて、完全な表意ないしは表語主義に屈伏してゐるのである。
   なぜこのやうにぶざまな片手落ちをやらかしたのか。その理由は忖度するに難くない。すこし考へれば、〈愛想がつきる〉は絶對に〈愛想がすきる〉とは言ひ變へられないことは誰にでも判る。まさしくそこを誰かに突かれたのだらう、編者は慌てて〈愛想ずかし〉の〈ず〉を〈づ〉に直したといふわけだ。何と姑息な辭書づくりであらうか。血の廻りの惡いにも程がある。知的怠惰といふよりも、これでは知的缺陷であり、智能指數の低さの問題である。同時に、それを一時的にも「通用」させた日本社會全體の言語意識の荒つぽさも問題にしていい。
   考へてみると、これは非常に大きな、しかもアイロニカルな問題を孕んでゐる。前囘にも書いたが、日本文が區切りにくい、あるいは語意識の乏しい言語であるために、西洋語に接した知識人たちがその日本文に語意識を帶びさせようとして、分ち書きの實驗を始めた。そのうちの急進派がローマ字化へとつつぱしり、結果的には、現代假名遣ひといふ畸形兒を生み出してしまつたのである。善意に解釋すれば、角を矯めんとした改革、新機軸が牛を殺す一歩手前まで來てしまひ、古來の日本語に嚴存してゐたと言ふよりは潛在してゐたと言つたはうがよいやうな「そこはかとない」語意識の多くをずたずたに引き裂いてしまつたのだ。これが第一のアイロニーである。
   他方、歴史的假名遣ひといふ牛を改惡から守らうとした人たちですら、その全員がその假名遣ひに含まれてゐた語意識を完全には意識してゐなかつたのではあるまいか。だとすれば、革新を求める側による語意識志向は、たとへ傳統的假名遣ひの一時的な語意識破壞につながつたにもせよ、その假名遣ひのうちに潛んでゐた語意識を表面に浮上させる働きを結果的に果たしたことになる。
   もし國語正常化が達成されて正假名遣ひが再び普及したならば、私たちは、改革以前には嘗てなかつたほど意識的に日本文を構成する語句の獨立性、單語性を感得し、教育することができるであらう。多くのことにつけ、私は樂觀的な人間である。國語改革は、一時的には混亂をもたらしつつあるが、台風一過後には、國語を、これまでのやうに「あらつぽく」ではなく、もつと肌理こまかに扱ふ態度が育まれることだらう。大患を患つた人が病前よりも鋭く明晰にものを見る目をもつことができるのと同じことだ。
   新舊交替は一本直線ではない。舊の後に新が來て、その後にまた舊が、より洗練されたかたちでやつてくる。それは螺旋階段状の進行過程なのであり、刻々と私たちは上昇をつづけるのである、上から見れば、單に左右二極をもつ圓であつたものが、横から見れば、ジグザグな上昇螺旋であることが判るのだ。挫折しつつある國語改革も、國語をもつと丁寧に扱ふ必要と國語の本質を多くの人に痛感させた點では、あながち無用、無益な改惡ではなかつたのだ、と言つたのでは讚辭になつて誤解を招くだけだらうか。
   ここで〈づ〉の話に戻る。なぜ〈頭〉の音の一つは〈ず〉ではなく、〈づ〉であるのか。
   その理由がもしまだ確定されてゐないとすれば、私は次のやうな説を提唱したい。
   それは音義説を援用した假説だが、充分な説得力をもつ假説である。音義説とは、國語の音そのものに義(意味)があるとする考へで、たとへば、目下考察中の〈づ〉の場合、〈頭〉の音讀みに〈ず〉ではなく〈づ〉を使ふはうが必然性が強く、それ故に説明しやすいのは、音義説によると、〈つ〉音は「圓」あるいは「丸」を意味する語音であるからだ。
   例を擧げると、〈つむり〉はまさに〈頭〉そのものの訓讀みであり、〈おつむ〉はその丁寧語であつて、〈つぶら〉にしても〈丸い〉を表してゐる。この三語に共通する〈つ〉が濁つたのが〈づのぼせ〉、〈づきん〉、〈づのう〉などの〈頭〉の假名表記であるといふわけだ。 このことがすでに確定してゐて、教育にも應用されてゐるなら、それで良いが、もしさうでなかつた場合には、音義説そのものを援用して、〈頭巾〉は〈ずきん〉ではなく〈づきん〉である理由を説明すれば、たやすく納得してもらへよう。勿論、他の假名については、全體としてはあやふやな音義説をもち出さないはうがよかろう。
   いはゆる「は行問題」などにも、上のやうな關連づけによる正しい假名遣ひ教育ができれば、たとへ關連づけがこじつけめいたものであつても、記憶の助けになる實用價値だけでも充分と割り切るのが現實的ではあるまいか。數字を暗記するのに日本人はその一つ一つに語字を當てて音讀しやすいものにする名人なのである。さういふ恣意的な規則づくりを正假名學習にも應用したらどうだらう。


   以上、前囘への修正・補足を、前囘のやうに對話形式によらず、論述のかたちで提示してきた。ここからはまた對話形式で話を進めることにする。


   「きみの書いたこの小論を讀んで、不審に思つたんだが、なぜ改革派はこんなに單純な不統一を平氣で讀者の前に晒してゐるのだらうか。〈手づまり〉や〈愛想づかし〉は正假名に戻しておきながら、〈つまずく〉や〈ずきん〉は新かなのままといふのは、疏漏でないとしたら、どんな魂膽あつてのことなのか、理解にくるしむね」
   「勿論、第一の理由は、意味上、つまり語意識的に、誤用であることが比較的簡單に見破られてしまふものは舊に復させ、見破りにくいものだけを新のままにのこしてあるといふのが技術的理由なんだが、その背後にある本質的な理由は、本來〈づ〉であつたものを、全部〈ず〉から〈づ〉に戻してしまつたら、四つ假名といふ領域での表音主義が全滅して、新假名表記の重要な一隔が完全に崩れ、いはば牙城の(一の砦)が陷落し、突破口が拓かれてしまふからだ、とぼくはにらんでゐるんだ。つまり、意地と面子で〈づ〉を避けてゐるんだ」。
   「本當にさうだとすれば、我々の目的達成は意外に簡單かもしれないね」と、すでに正假名派に轉じてゐた相手は『我々』といふ連帶用語を自然に使つて、言つた。
   私はここで今囘の最も重要な事項を打ち明けた。
   「今の段階で、表音派に通告、ないしは果し状をつきつけ、これまでの彼らの段階的な退却ぶりをつぶさに指摘して、それでも表音主義の旗印を降さないとは、完全な羊頭狗肉ではないか、潔く、少なくとも四つ假名問題では白旗を掲げるべしと迫ることを、ぼくは提唱する。これは、老化して形骸化した現在の國語問題協議會に提唱してゐるのではない。進捗度はとにかく、字音體系化のための研究會など、國語正常化の基礎固めは立派だが、廣報活動としては、宴會や記念出版のみに精力的で、肝腎の第一目的達成を忘れて、現状維持で滿足してゐたのでは、會そのものが先細りになることは目に見えてゐる。たとへ現状維持がすべてであつても、そのためには、外への働きかけ活動を積極的に續行することが必要であり、ましてや、會の存在目的の達成を期するには、全員が頭をしぼつて一般市民に訴へる最良の方策を立案し、日本人全體が間違つた國語を使つてゐることを徹底させ、輿論を熟成・喚起させなくてはならないのだ。時が經てば經つほど、國語の正常化は困難になることを忘れてはなるまい」。


國語問題協議會 會則第一條

本會は、(中略)國語の正常な發展に貢獻することをもつて目的とする。




   附記 前囘に予告した、fish とghotiとが同じ音韻であるとの「なぞなぞ」の種明かしは、次回にもちこす。




(なかむら・やすを。飜譯家・評論家。國語問題協議會會員、日本文藝家協會會員。現代演劇協會理事。新著に『絶對の探求――sc恆存の軌跡』(麗澤大學出版會、平成十五年八月刊)『英和飜訳の原理・技法』(日外アソシエーツ株、平成十五年三月刊)がある。本文の著作權は筆者中村保男が保有する。無斷轉載を禁ず)