保革・新舊と國語 ―― 連載一



中 村  保 男    




   歴史的假名遣ひで國語を書いてゐると、よくかう言はれます。「古いから良いという訳のものではあるまい」。それでは、「新しいものなら何でも良いと言ふのか」と聞き返すと、「そんなことは言ってない。古くても良いものはあるだろうさ。だけど、時代が変われば、言葉も変わる。それにさからうのは反動というものだ」と相手はとんでもないことを言ひだす。これでは、こちらも出方を變へる必要ありだ。
   「さうすると、パンより飯が好きな奴は、みんな、反動だといふことになつてしまふ。しかし、それは趣味の問題であつて、主義の問題ぢやないんだ。好みや、趣味こそが思想の基盤を成すべきものであつて、主義となると、嫌なことでも認めなくてはならない場合があるのさ。兩者を混同しないでくれ。しかも、ぼくは、言葉は變つてはいけないなどとは言つてやしない。自然に變る分には、大して問題はないんだ。ただ、假名遣ひのやうに、不自然に改惡されたことに、今さらながら義憤と不滿を感じるやうになつただけでね」
   「だけど、その時には誰も反対しなかったんだろう」
   「當り前ぢやないか。食ふことで精一杯だつた敗戰直後のどさくさにまぎれて、まさしく權力によつて強行されたんだ。一種の詐欺だよ。だから、君の言ひ方を借りれば、時代が變つて正常化してきたからには、言葉も正常化して、少なくとも敗戰時の状態から出直し、そのうへで或る程度の自然淘汰にまかせるのが筋なのさ。今までのやうに、劃然とした土俵のない相撲場で取り組みをしてゐたのでは、本當の勝負とは言へない。改革とは、枠を突き破ることであつて、宛行扶持の自由圈内で好きなことをするのは、體制順應以外のなにものでもあるまい」
   ここで相手はしばらく考へ込んでしまつた。私も默つてゐた。
   「だけど」と、やつと彼は口を開いた。「改革とは別に、必然的な、大きなうねりのような世界史的な変化というものもあるはずだろ」
   「君がそれを言ふとは、この文脈の中では大分、見當違ひだと思はないか。人類史、世界史の流れといふのは、人間による大小の改革を時には押し流し、時には包み込んで、千年期、萬年期の單位で進み行くものなんだ。次第に加速度をつけてゐるのは否めないけど。その波に乘ることは、意識的にはできないことなのさ」
   相手はまた押し默つた。今度はどんな手でくるつもりなのか。
   「昔の人だって、日々に新たなり、と言ったじゃないか」。さすがに色々な攻方があるものだ。私は膝を乘りだして應へた。
   「それは、實は毎日、世の中が前日より進歩してゐる、といふ意味ではなく、自然は常に更新されてゐるので、それに則して、毎日、初心に還り、氣分一新して事にあたれ、と解釋するのが正しい」。すると相手は「では、日進月歩というのは何を意味するのか」と逆襲したつもりで迫つてくる。それにたいしては、かう應ずるのが最善の策である。
   「それは文明の利器や研究に關して言へることであつて、文化はそんなものではないんだ。昔は文明開化のことを文化と略したものだが、今は文化と言へば、一國や一民族の生き方全般を指すのさ。それが毎日、變つてばかりゐたら、めまぐるしくて、誰もついていけないぢやないか。車だつて、毎日、モデル・チェインジしてゐたら、運轉に慣れる暇がない譯だ。ましてや、言葉となつたら、ちよくちよく變へたはうがいいのは、合言葉だけだ。言葉の變化はなるべく遲いはうがよい道理なのさ」
   「しかし、一遍、変えてしまった以上は」と敵は方向轉換を圖る。「また元に戻すのは、余計な変化というものだ。殊に、六十年もかけてやっと現代仮名づかいが定着したところなのだからね」
   「ちよつと待つてくれ」とこちらは思ふ壺に相手が豫想外に早く嵌まつてくれたことに少し拍子拔けして、一呼吸置いてから、「今、定着と言つたね。それ、どういふ意味なのか、知つてゐるのか。或る考へや制度が正しいものだと廣く認定されることを言ふ用語、それが定着なんだ。現代假名遣ひは、敢へてそれに逆つて歴史的假名遣ひを使つてゐる有名な物書きがまだ何人もゐるくらゐだから、とても定着したとは言へないのさ」
   「でも、そういう物書きって、変わり者ばかりじゃないのか」
   「とんでもない。しつかりした人にかぎつて、歴史的假名遣ひを守つてゐる。あるいは、それに轉向しつつある。だけど、それより、この事實を君はどう見る?假名遣ひに新舊の區別があることもよく知らない一般市民を相手に意識調査をしてみたら、「痔」を「ぢ」と表記した人のはうが現代式に「じ」とした人より多かつたんだ。自分では意識してゐなくても、日本語人としての血が「痔」を「ぢ」と書かせるのさ。生れた時から身についてゐたものを變へるのが合理的だといふなら、そんな合理主義は願ひ下げだね」
   「ふうむ」
   「それどころか、ここへ來て、假名遣ひの正常化すなはち〈舊假名化〉の動きがとみに活溌になつてゐる。もともとぐらついてゐたのが、本格的にぐらつきだして、馬脚を露はしかけてゐる。定着どころか、法律で言へば笊法だね。目から洩れてしまふ大切な日本語が多すぎるんだよ。量だけ制限して簡略化したはいいが、質が犧牲にされて、そのうへ、理論あるいは原理が薄弱だつたために、旗印だつたはずの〈合理性〉が乏しく、不合理と不統一が目に立つほど多い」
   ここで相手は、急に眞顏になつた。「現代仮名づかいでは捉えられない日本語とは、どんな言葉かね」
   「正確に言へば、語意識だよ。まさにローマ字化を狙つた表音主義者でも珍しく理論的な、頭の切れる連中がめざしてゐたこと、すなはち、句讀點なしでも讀めるといふ日本語の特性として、どこまでを一語とみなせばよいのか分らないので、或る語を他の語から明確に區別できるやうに分かち書きすれば、語意識も生まれてくるから、各語の獨立性と相互關聯づけがたやすく可能になるだらうといふ歐米語式の言語觀。さういふ分かち書きによる國語の語意識釀成といふ無理な方法をめざしながら、他方では、表音主義に立たうとしたために、舊來の國語にあつた獨特の語意識を潰してしまふといふちぐはぐな結果を招いた。まさに權兵衞が種まきや…の烏が表音主義だつたといふ譯」
   これで相手はすつかり興味を唆られたらしい。「その語意識とやらを具体的に説明してくれないか」かうなれば、こつちのものだ。
   「例を擧げよう。(づくめ)といふ接尾辭があるな。たとへば、(御馳走づくめ)がその應用だ。これを或る國語辭典で引いてみると、(づくめ)といふ見出しはあるにはあるが、そこには(ずくめ)を見よ、となつてゐる。(金づく)などと言ふときの(づく)はどうかと思つて引いてみると、これも(ずく)なんだ。實は、(づく)は(盡く)すなはち(盡きる)から來てゐるので、(竦む)はもちろん、(好く)とも全く無關係。(全部を使ふ)といふのが(盡く)や(盡くす)あるいは(盡きる)の意味だといふことは――今度は漢字の問題も絡むけれど――一寸考へれば、解ることだ。尤も、〈盡く〉のほかにも、〈付く〉や〈憑く〉などの意も考へられるがね。ぼくの素人語源説では、普通〈付く〉が充てられてゐる〈旅行づく〉などは〈憑く〉のはうが少なくとも超常的な眞實味がある。(笑)それはさて措き、(色氣づく)と表記してゐた同じ辭書が(腕づく)となると(ずく)を充ててゐるんだから、不統一もいいところだ。國語改惡の三角波をもろにかぶつて働かなくてはならない現場の編者には同情するがね。とにかく、(盡)(付)(憑)などの意味を表す(づく)を、(好く)が連想される(ずく)で表音してしまつたのが、そもそもの間違ひで、せめて(ずく)で(ずく)と(づく)を代表する、とでも言つておけばまだしも辨明しやすかつたらうに、表音の立場を通すと初めに宣言したのだから引つ込みがつかない、同じ辭書でも版を重ねるときにこつそりと(愛想ずかし)を(愛想づかし)に戻したり、これは(ぢ)の問題だけど、〈鼻じ〉を〈鼻ぢ〉に還したりして、徐々に表音から表意への道を引き返してゐるのが現在の表音主義なるものの實態なのさ。前にも言つたが、(痔)を一般の人に假名書きさせると、歴史的假名遣ひで(ぢ)と表記する人のはうが多いといふ調査結果も出てゐるくらゐなんだ。それを(じ)と書かせるのは日本語の生理や語感に反することぢやないか」


   「なるほど、辭書が逆戻りを始めたのは、行き過ぎに氣がついたといふことなんだな」と、かつての新しがり進歩主義者。
   「それを認めるなら、潔いので見どころもあるのだが、一昨年にも、勝利宣言めいたものが新聞紙上に堂々と出てゐたくらゐだ。* 誰が出させたにしろ、その〈勝利〉は事實なのかね。その新聞では、〈がくかう〉が〈がっこう〉になつたことをお手柄の代表例として擧げながら、見出しに〈現代かなづかい〉は大成功だつた。表音派と表意派の論爭も今は昔…、と書いてゐるんだよ。表音と表意といふ對立が完全に克服されて、〈現代かなづかい〉に止揚されたといふのなら、それはそれで認めなくてはならないが、まだまだ、今、擧げたやうな語意識無視の假名遣ひが殘つてゐる以上、そのままでは〈現代かなづかい〉を認める譯にはいかない。ただ、歴史的假名遣ひ派に轉向してまだ五年ほどしかたつてゐないぼくとしては、たとへば、字音の問題は複雜で、よく判らないから、〈痔〉は〈ぢ〉と書く場合のやうに誰が見ても語感に合致してゐる書き方は別として、直接、觸れることはもうよさうと思つてゐる。但し、語感の問題でも、〈水〉なぞは〈みず〉と書くはうがぼくの語感にはぴつたりなんだけど、これは字訓の決まりでやはり〈みづ〉とするべきだぐらゐは積極的に言ふつもりだ」
   「さう言へば、〈靜か〉の〈ず〉は歴史的には〈づ〉なんだつてね。おれの語感では、もともと〈ず〉だつたんだとばかり思つてゐた」
   「そこまで分つてゐるんなら、君もすぐに歴史的假名遣ひ派になれるよ。だけど、一番の問題は、歴史上、どの時期の假名遣ひをもつて〈歴史的〉と呼ぶのかといふ點だと思ふ。さつきも言つたとほり、ぼくは敗戰時の假名遣ひに戻ればいいのでないか、と思つてゐるんだけど、さうなると、明治年間に施行された國語教科書用の假名遣ひと同じといふことになる。それまでに契冲や宣長によつて整備されてきた假名遣ひにそれが基づいてゐるからだ。今囘は主に〈ず〉と〈づ〉の問題にかぎつて現代假名遣ひの不合理、不統一な點を指摘した譯だが、不統一の例は〈額づく〉〈躓く〉などにも見られるやうだ」
   「要するに日本語には表音文字は無理だといふことなんだな」
   「さう言ふよりも、表音なぞといふことは、どの國の言葉にも不可能なのだと言つたはうが眞理に近いと思ふね。現在の國際語である英語でも、表音どころか一字一音でさへもないのだからね。fishとghotiとが同じ音韻だといふ笑ひ話みたいな事實さへあるんだから」
   「それは是非種明かししてもらひたいな」
   「それは次囘のお樂しみとして、ここで居住ひを正し、今囘の結びを。『(ひざまづく)は〈膝〉と(突く)だと意識してゐるものにたいして(ひざまずく)と書けといふのは、その生きてゐる語意識に死を宣告、あるいは暗示、命令するやうなものです』と『私の國語教室』に記したsc恆存の叫びを絶對に殺してはならぬ」





* 朝日新聞(夕刊)平成十三年二月十五日、十六日、二十二日、二十三日に四囘連載の「国語審議会物語」。本文中の引用は、第二囘の副見出し「学校はガクカウを《がっこう》に/《現代仮名づかい》は大成功だった/表音派と表意派の論争も今は昔・・・」から採つた。これは次の朝日新聞の電網區で讀める。 消えた「てふ」 国語審議会物語2





(なかむら・やすを。飜譯家・評論家。sc恆存に師事。國語問題協議會會員、日本文藝家協會會員。現代演劇協會理事。飜譯書著書多數。sc恆存の『批評家の手帖』の英譯を試みてゐる( Fukuda Tsuneari: Words, Novels, and Drama 申申閣發行)。新著に『英和飜訳の原理・技法』(日外アソシエーツ株、平成十五年三月刊)がある。本文の著作權は筆者中村保男が保有する。無斷轉載を禁ず)