敬 語

土 屋  道 雄   


   われわれ日本人は敬語と無縁に生きることはできない。一人前の社会人であれば、日常生活において、否応なしに敬語を使はざるを得ない。勿論、欧米にも俗な言ひ方から丁寧な言ひ方まで色々あり、敬意を表す表現もある。ただ、日本語ほど顕著でないだけである。
   そのために、欧米には敬語はない、敬語を使ってゐるのは日本だけだ、こんな封建時代の遺物のやうな敬語は廃止すべきだといふ議論が戦後盛んに行はれたが、欧米にないならなほのこと誇りを持って、大事に守り育てて行くべきではないか。
   敬語は封建時代の遺物であり、民主主義の時代にそぐはないと思ふのは、上下関係といふ一面に捉はれてゐるからである。敬語を親疎関係――地位の上下に関係なく、親しくない相手には敬語を用ゐるが、親しい相手には通常語を用ゐる――や主客関係――地位や年齢の上下に関係なく、たとへば店員は客に対して敬語を用ゐる――において捉へるならば、敬語は今後ますます重要性を増すと思はれる。

   ところで、日々の新聞記事に敬語表現が出てくることは滅多にない。敬語表現が使はれるのは、皇室及び国賓として来日した外国の国王、王妃等にかかはる記事に限られる。先づ、皇太子殿下のお妃に小和田雅子さんが内定したといふ平成五年一月七日の記事に関連して敬語について考へてみたい。
   朝日新聞も読売新聞も敬語表現に関する限り差異はなく、「れる、られる」敬語だけで押し通してゐる。朝日が「貫かれた、歩んで来られた、通われた、果たされた」とやれば、読売も負けずに「会われる、打ち明けられた、出発される、伝えられた」とやってゐる。
   尊敬表現の型にはこの「れる、られる」以外に「お(御)……になる」「お(御)……なさる」「お(御)……下さる」「お(御)……あそばす」などがあるのに、何とかの一つ覚えのやうに「れ、れ、れる、れる……」「られ、られ、られる、られる……」とやられてはたまらない。折角豊かな敬語表現があるのに、何とも芸のない話である。
   それに、尊敬表現の型とは別に、尊敬語を用ゐることもできるのに、全く使はれてゐない。われわれは日常生活において、たとへば「行く、来る、ある、ゐる」には「いらつしゃる」、「言ふ」には「おっしゃる」、「する」には「なさる」といふ尊敬語を頻繁に用ゐてゐるではないか。もとより過度に用ゐる必要はないが、一般の人たちに用ゐられるこれらの尊敬語を皇室に用ゐて悪い道理はないはずだ。
   新聞記事とは言へ、文章は文章である。もう少し表現に変化を持たせたらどうか。工夫したらどうか。それとも、「れる、られる」以外の型や尊敬語を用ゐることを憚る理由でもあるのだらうか。不可解である。
   戦前によく使はれた「行幸、御座所、御料馬、下賜、親電、勅語、御製、上奏、参内、拝謁」等は全く影を潜めてしまった。これらは一般に使はれない特殊用語だから解らぬこともないが、一般に広く使はれてゐる敬語表現すら用ゐないといふのは、どうしても納得できない。皇室を会社の上司や店にきた客以下の扱ひをしてゐることになりはしないか。

   朝日新聞社発行『朝日新聞の用語の手びき』の「皇室用語」の項には「戦前、皇室だけで使われていた特別な敬語はやめ、一般敬語のなかの最上のものを用いる」とある。これはどういふことか。「れる、られる」が最上の敬語だとでも思ってゐるのか。最上どころか、最も軽い敬語ではないか。確かに簡便ではあるが、敬意は低い。
   朝日は自ら編んだ『手びき』に反してゐるが、ここ十年の間に方針を変へたのか。いづれにせよ、「れる、られる」だけでは味もそっけもない平板な文章になる。もう少し敬語表現に神経を使ってもらひたいものである。
   同一月七日の「れる、られる」が多用されてゐる記事の中に、たとへば朝日には「通われたが……客員研究員になつた」「初心を貫いた殿下」「参加されていた。……飲んでいたという。……話していたという。……歓談されていたという」 とあり、読売には「史学を専攻されたが、歴史に興味をもつきっかけは……」「民間から妃殿下を迎えられた。……国民に強く印象づけた」「踏んでこられた皇太子さまの姿勢は……皇室への親しみを深める役割を果たした」とあり、敬語表現と通常表現が混在してゐる。
   当然「研究員になられた、貫かれた……印象づけられた、果たされた」でなければならず、いかにも不統一であり、神経が行き届いてゐないといふ感じがする。
   更に気になるのは「天声人語」にある「理解を深める努力をお続けになつていたのに違いない」といふ表現である。ここに一例だけ「お……になる」型が見られるが、その後の「いた」が感心しない。
   たとへば「書いてゐる」を敬語表現にする場合、「書く」と「ゐる」の双方に敬語を用ゐて「お書きになつていらつしやる」とするか、どちらか一方に敬語を使ふとすれば、上の「書く」の方はそのままにして「書いていらつしやる」とする方がよい。つまり「お続けになつていた」より「続けていらつしやつた」とする方がよいといふことである。
   同様に読売の記事の「研究活動を続けられている」も「研究活動を続けていらつしやる」としてもらひたい。
   また両紙とも「おられる」を使ってゐるが、「おる」は謙譲語として使はれてゐるから、それに「れる」をつけても敬意は低い。皇室には最低の敬語を用ゐれば十分だといふのでなければ、やはり「いらつしやる」を用ゐてもらひたいと思ふ。

   次にテレビの敬語表現についてだが、今回の皇太子妃内定の報道に限らず、不適切な敬語の使ひ方があまりにも多い。文章を書く場合とは違ひ、吟味する余裕がないから同情すべき点もあるが、視聴者に与へる影響の大きさを考へれば、決して等閑に付すことはできない。
   皇太子殿下の学友に「御」をつけて「御学友」と言ったりするのはお愛橋であり、先に指摘したやうに「一日を過して(お過しになつて)いらつしやいます、聞いて(お聞きになつて)いらつしやいます」と言ふべきところを「一日を過されてゐます、お聞きになつてゐました」(日本テレビ)と言ったりするのも大目に見るとして、許せないのは尊敬表現と謙譲表現との混同である。
   ここ数ヶ月の間に気づいた例を二、三挙げれば「また御利用して下さい、どうか御注意して下さい」「熱いうちにいただいて下さい、いつお手入れをいたしますか」などがある。「お(御)……する」は謙譲表現の型であるから、それに「下さい」をつけても敬意払ったことにならない。「御利用下さい、御注意下さい」でなければならない。また「いただく、いたす」は謙譲語であるから「熱いうちに召し上って下さい、いつお手入れをなさいますか」と言はねば相手に失礼になる。
   尊敬語と謙譲語とを取り違へると、自分では相手に敬意を表したつもりが、反対に相手を蔑むことになるわけだから、むしろ敬語を使はない方がましだといふことになる。
   敬語の使ひ方を間違へると、相手や聞き手に不快感を与へ人間関係がぎくしやくする面、上手に正しく使へば人間関係が非常に円滑になる。敬語には言葉を通して行はれる人と人とのつきあひ、心と心とのふれあひを滑らかにする潤滑油の働きがあると言ひたい。
   平成四年九月二十七日に発表された総理府の「国語に関する世論調査」によると、今国語が乱れてゐると思ってゐる人は七四・八パーセントで、乱れてゐると思ふ点では、「話し方」を挙げた人が七二・四パーセントで最も多く、次いで「敬語の使ひ方」が六七・三パーセントとなつてゐる。また敬語について、九三・七パーセントといふ圧倒的多数の人が「必要」と答へてゐる。これだけの人が敬語の乱れを自覚し、敬語を必要と考へてゐる以上、敬語の将来は明るいと言へよう。



( 『嫌ひは嫌ひ好きは好き』(平成十三年、私家版、頒價千七百圓)所收。 初出は『文武新論』平成五年二月十日號。本文の著作權は筆者土屋道雄が保有する。無斷轉載を禁ず)