最近の歴史觀をめぐる判決について(十四)



辯護士  高池 勝彦    





七三一部隊事件判決


  前號まで數囘にわたつて、いはゆる戰後補償問題で被告側に損害賠償の支拂を命じた判決について述べてきた。私の知る限り、國や企業の責任を認めた判決はそれだけである。あとは、企業に對する訴訟で、原告側が敗訴し(企業側が勝訴し)、原告側が控訴や上告して最高裁や高裁で和解して賠償金を支拂つたケイスがそれぞれ一件づつある(注一)
  今囘から、最近の判例の中で、從來述べてきたやうな、結論は原告側の敗訴であるが、判決理由や傍論部分に問題があるものを、二、三囘にわけて述べることにする。
  今囘は、いはゆる七三一部隊事件判決について述べる。この七三一部隊に關する訴訟は二件あり、一件は、私がこの連載の最初に、戰後最惡の判決であると述べた李秀英他の中國人が提訴したものである。李秀英は南京事件の犧牲者であるとして提訴したのであるが、他の原告の中に七三一部隊の犧牲者と主張する人達が含まれてゐるのである。今囘述べる判決は、百八十名の原告等すべてが七三一部隊の關係者である(被害者またはその親族)。そこで、原告等の支援者のホームペイジでは、李秀英裁判の方を、「中國人戰爭被害者(南京・七三一部隊)損害賠償請求訴訟」と呼び、今囘述べるものを、「七三一部隊細菌戰(浙江省・湖南省)國家賠償請求訴訟」と呼んでゐる(注二)
  この事件の内容を、『タイム』の平成十四年九月十一日號が紹介した。しかしその紹介たるや、見出しの説明文に「第二次大戰で、日本は中國を恐ろしい生物化學戰爭の實驗場として使つた。侵略者は、何年も否定しつづけてきたが、やうやく態度を改めてきた」と述べ、全文これ反日的であるばかりではなく、事實に反し、誇張し、餘りにひどい内容だつた。私は『諸君!』編集部の求めに應じ、平成十四年十一月號に、この『タイム』の記事およびこの判決について書いた。『諸君!』の文章と重複する部分もあるが、かさねて述べることにする。この判決は、『タイム』に激賞されるのにふさはしい内容である。


(1)事案の概要
  判決文は事案の概要として次のとほり述べる。
  本件は、中華人民共和国国民である原告ら(第1事件原告108人、第2事件72人、合計180人)が、被告が第2次世界大戦中に中国大陸において当時の国際法に違反する細菌兵器を使用した戦闘行為(以下「細菌戦」という)を731部隊等の細菌戦部隊に実行させて一般住民である原告らないしその親族を殺傷し、同大戦後は違法に救済措置立法を怠り、また細菌戦の事実を隠蔽したことによって原告ら又は承継原告らに多大の精神的損害を与えた旨を主張して、被告に対し、謝罪文の交付及び官報掲載(謝罪)と慰謝料(原告1人について1000万円)の支払とを求めた事案である。
  判決は原告等の法的主張と爭點を次のやうに要約してゐる。
  1ヘーグ陸戦条約3条ないしこれを内容とする国際慣習法に基づく損害賠償請求権(謝罪請求権及び慰謝料請求権)の有無
  2国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への遡及適用による損害賠償請求権の有無
  3中国法に基づく損害賠償請求権の有無
  4日本民法に基づく損害賠償請求権の有無
  5条理に基づく損害賠償請求権の有無
  6被告の立法不作為による損害賠償請求権の有無
  7被告の細菌戦隠蔽行為による損害賠償請求権の有無


(4)裁判所の法的判斷
  判決は、右爭點を順を追つて詳細に分析して原告等の請求をことごとく否定してゐる。その分析は、爭點の1から5までは、判決の約半分近くの二十頁を費やし、繁簡宜しきを得て、きはめて穩當かつ妥當な分析をしてゐる。ところが争点6に至つてその判斷があらぬ方に脱線してしまふのである。今までも何度も述べたやうに、どうしてこのやうな現象が生ずるのか通常の感覺では理解できない。『タイム』がいふやうに、「侵略者(裁判官)がやうやく態度を改めてきた」といふ意識にとらはれてゐるとしか思へない。 争点1から5までについては、論點は今まで約一年にわたつて述べてきた他の判決と同じであるので、省略する。
  争点6の立法不作為による損害賠償請求権については、これまでの判例で度々述べられてゐるとほり、「国会の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるのは憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような例外的な場合に限られることになる。」と述べ、その「判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討するが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無をみておくことにする。」といつて、次のやうに述べゐる。「必要な範圍で云々」といふのは前にも別件で出てきたとほり、問題のある判斷を下すときに使はれる常套句である。
  この点については原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので、本件において事実を認定するにはその点の制約ないし問題がある。また、本件の事実関係は、多方面に渡る複雑な歴史的事実に係るものであり、歴史の審判に耐え得る詳細な事実の確定は、最終的には、無制限の資料に基づく歴史学、医学、疫学、文化人類学等の関係諸科学による学問的な考察と議論に待つほかはない。しかし、そのような制約ないし問題があることを認識しつつ、当裁判所として本件の各証拠を検討すれば、少なくとも次のような事実は存在したと認定することができると考える。
  從來述べてきたと同樣、被告である國が何の反論も反證もしないことに重大な疑問があるうへに、この文言は、それに乘つて裁判所が問題のある判断をするときの常套句である。そして七頁餘りにわたつて、詳細な事實認定を行つてゐるのである。
  判決はまづ、七三一部隊編成の經緯を簡單に述べ、「中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に送り込まれ、同部隊の細菌兵器の研究、開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。(原文改行)中国各地には他にも同様な部隊が置かれたが、その中で有力な部隊が南京に置かれていた中支那防疫給水部(「栄1644部隊」又は「1644部隊」)である。」とし、「1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて、731部隊や1644部隊等によって、……中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。」と述べ、以下三頁半にわたつて次のやうな事實を認定してゐる(以下摘記する)。
  衢県(衢州) 1940年(昭和15年)10月4日午前、日本軍機が衢県上空に飛来し、小麦、大豆、粟、ふすま、布きれ、綿花などとともにペスト感染ノミ(小袋に入ったものもあった。)を空中から撒布した。
  10月10日以降、上記の投下物のあった地域で病死者が出始め(ただし、その病気がペストかどうかは確認されていない。)、同じころからネズミの死体が続々と発見されるようになった。11月12日にペスト患者が初めて確認され、投下物の会った地域においてペスト患者が多発した。
  衢県で11月12日以降に発生したペストは、日本軍機が投下したペスト感染ノミがネズミにペストを流行させ、これがヒトに感染した者と考えるのが合理的である。
  1940年(昭和15年)末までに当局に報告されたペストによる死者は24人であった。……証人邱明軒は、衢州細菌戦の被害者が1501人に上るとしている。
  また、衢県でのペストは、……その周辺の地域にも伝播し、大きな犠牲をもたらした。
義烏 1941年(昭和16年)9月、衢県に流行していたペストに感染した鉄道員が義烏に戻って発病し、これをきっかけに義烏においてペストが流行した。
  ペストは、義烏からさらに周辺の農村へ伝播していったが、原告陳知法ら現地の被害調査会の調査によれば、義烏市街地におけるペストによる死亡者は306人に上るとされる。
      (中略)
  日本軍は、1942年(昭和17年)6月10日ころから江山県域を占領し、約3か月後に撤退したが、この撤退の際、コレラ菌を使用した細菌戦を実行した。その方法は、主として、井戸に直接入れる、食物(餅状のもの)に付着させる、果物に注射するなどというものであった。
  江山の人々の中には、これらの食物等を飲食してコレラに罹患して死亡する人が発生した。原告鄭科位及び同周法源の最近の調査によれば、当時七斗行政村においてコレラで死亡したと考えられるのは合計37人であった。
  このやうに一見精密な數字が次々にならべられ、たとへば常徳ではペストによる死者は七千六百四十三人であるとされる。江山についての記述など、裁判官は、本當に日本軍が撤退の際、コレラ菌を食物に付着させたり、果物に注射するなどといふ馬鹿げたことをやつたと信じたのであらうか。また、「最近の調査によれば」といふが混亂の極にあつた當時の中國の病死者數を最近正確に知ることができるかどうか疑問に思はなかつたのであらうか。私は、この文體からして、東京裁判において、例の魯粢なる人物の、中國人五萬七千四百十八人の犧牲者についての證言を思ひ出させるものである。要するに精密さをよそほつた誇大な數字を掲げるのである。
  七三一部隊の專門家によると、いはゆる細菌戰の犧牲者は多くて千人であるといふ(注三)
  ところが、判決が認めた犧牲者を合計すると一萬百七十二人以上といふことになる。
  しかも、判決は、「これらの細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので、陸軍中央の指令により行われた。」とも判断し、次にペストとコレラの一般的な説明をした後、個々の原告等の被害について次のやうに述べる。
  一部の原告ら(略)が本人尋問においてその旨(筆者注・被害状況)供述している。大半の原告らについては、それ以上に原告らの上記主張事実を確認することができるより客観的な証拠は提出されておらず、コレラの事実の適格な認定のためにはなお証拠の追加提出が可能かどうかが検討される必要があると思われるが、上記原告らの各陳述書及び本人尋問における各供述自体は十分了解し得る説得的なものである。
  裁判所は、結論を出すのに不可缺とはいへない原告等の被害についてどうしていつもかう簡單に原告等自身の言ひ分を鵜呑みにするのであらうか。
  次に、このやうな細菌戰が國際法上どのやうに評價されるかについて、「被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解するのが相当である。」と判断する。
  そして、「国際法の基本原則によれば、本件細菌戰に係る被告の国家責任は、我が国と中国との国家間でその処理が決定されるべきものである。」とし、昭和四十七年九月二十九日の日中共同聲明のおいて、「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したのであるから、「被告の国家責任については決着したものといわざるを得ない」としたのである。
  そこで、國家に立法不作意の違法があるかどうかを分析して、判決は結局國會にはそのやうな責任がないと判斷した。
  最後の争点7の、細菌戦隠蔽による損害賠償請求については、國家賠償法施行以前の行爲については、國家無答責の法理が確立してゐたから、隱蔽行爲があつたかなかつたかを判斷するまでもなく、原告等の請求は認められないと判斷した。
  國家賠償法施行以後の行爲については、「国家賠償法上の違法が認められるためには、法律上保護された利益が侵害されたことが必要である。」しかし、本件では、「原告らは被告に対しそれらの法的権利を有しないから、原告らのいう隠蔽行為が原告らの権利を侵害したという関係にはないといわざるをえない。」として、原告等の請求を認めなかつた。



(5)論評
  これはやはり二重の意味で、歪んだ不當な判決である。
  第一に、原告等の一方的な證據だけで、細菌戰の事實を認定するのはをかしいし、第二に、原告等の請求を認めないならば、そのやうな認定は不要である。
  もし細菌戰が違法であるといふために原告等の個々の被害状況や細菌戰の具體的判斷が必要であるといふのであれば、爭點7も同樣である。
  すなはち、日本政府は細菌戰の隱蔽工作をかくかくしかじか行つた、しかし、國家無答責の法理があるから國には責任がないといふべきである。しかし、この點について判決は、細菌戰の隱蔽の有無を判斷するまでもなく、國には責任がないと正當に判斷したのである。
  普通の訴訟であれば、原告等の具體的な被害を認め、被告の責任を認めたにもかかはらず、結局責任問題は別に決着がついてゐるのであるから被告には責任がないといふのであるから、馬鹿にするなといふところである。
  ところが、原告等は大勝利であると喜んだのである。タイムばかりではなく、朝日新聞など、一面の左九段拔きトップ記事で、「細菌戦の存在認定」の大見出しのもと、社會面でも大々的に報道し、喜びを押さへきれない様子であつた。
  右朝日新聞に法務省民事訟務課長が、「主文を聞いた範圍では、国の主張が認められたと考えている。」と語つたとされてゐるが(注四)、認識不足もはなはだしい。しかし、一課長ではなく、政府や政治家がこのやうな訴訟に對しては通常の民事訴訟ではないといふ認識で對應しなければいけないと考へる。


  注一 原告側の命名によると最高裁での和解は、「對不二越強制連行に對する未拂賃金等請求訴訟」、東京高裁での和解は、「鹿島花岡鑛山中國人強制連行等損害賠償請求訴訟」と呼ばれるものである。前者は、平成八年七月二十四日富山地裁判決(原告等敗訴)、平成十年十二月二十一日名古屋高裁金澤支部判決(控訴棄却)で、最高裁において、平成十二年七月十一日和解成立。
  後者は、平成九年十二月十日東京地裁判決(原告等敗訴)、平成十二年十一月二十九日東京高裁において和解成立。最高裁の和解後四ヵ月後の和解であるから、最高裁の前例に從つたのであらう。
和解はもちろん判例集に搭載されることはないが、以上三つの判決とも種々の判例集で見つけることはできなかつた。搭載されてゐないものと思はれる。



  注二 この判決も今のところどの判例集にも搭載されてゐないやうである。判決全文は、裁判所のホームペイジで見ることも印刷することもできる。



  注三 平成十四年九月五日産經新聞社説、『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋平成十四年八月十日發行)百二頁



  注四 平成十四年八月二十八日附朝日新聞




辯護士  高池勝彦