最近の歴史觀をめぐる判決について(九)



辯護士  高池 勝彦    





  前囘まで、關釜元從軍慰安婦訴訟の一審および二審判決について述べた。この一審判決は、戰後補償關係ではじめて賠償を認めた判決であるが、今囘は、同じやうに國に賠償責任、しかも巨額の責任を認めた判決を紹介する。



中國人強制連行國家賠償請求事件(注)


  この表題は判例集がつけた標題であり、判例集では原告等關係者の名前は匿名になつてゐる。「在日の慰安婦裁判を支える会」のホームペイジの事件一覽表の中では、「劉連仁強制連行・強制勞働損害賠償請求訴訟」といふ表題がつけられてゐる。このホームペイジからすると被害者の名前は劉連仁といふのであらう。


(1)事案の概要

  ここで述べる事案の概要は裁判所が認定した事實であり、それがどんな根據で認定されたのかはわからないが、國としては被害者の具體的な生活や逃亡など詳細はわからないはずなのに、それを裁判所が詳細に認定してゐることからすると、多分原告等の主張するままの事實認定であらう。
  中國山東省の劉連仁といふ男が、昭和十九年九月二十八日ころ、朝自宅を出た直後、「日本軍の支配下にあった中国軍の兵士から先に剣の付いた銃を突きつけられ、理由を告げられることなく同行を求められた。」それから數ヵ所を轉々とした後、「高密県の牢獄に収容された。このとき……集められた中国人は約二〇〇余人であった。……約一〇〇人が逃走を企てたが、武装した軍隊が銃剣で刺しあるいは発砲する等したため逃走は成功」しなかつた。それから青島に連行された。
  昭和十九年十月二十二日、青島を出て、二十八日門司港につき、それから汽車に乘せられて北海道の雨龍郡沼田村幌新太刀別所在の明治鑛業株式會社昭和鑛業所に連れて來られ、そこで作業に從事してゐた。
  劉は、昭和二十年七月三十日ころ、他の中國人四人とともに日本人の監督に反抗したことに對する處罰をおそれ、北海道の山中に逃亡した。四人の中國人は、昭和二十一年四月までに次々と發見され、劉のみが一人で北海道の山中を逃走した。約十二年六ヵ月後の昭和三十三年一月末ころ、北海道石狩市當別町の山中で發見され、保護された。
  劉がなぜ日本に連行されたかについては、裁判所は、外務省管理局が昭和二十一年三月一日附で作成した「華人勞務者就勞事情調査報告書」によつて認定してゐる。この報告書は原告側が提出したもので、はたしてそのやうな文書があつたかどうか、あつたとしても原告側が提出したものが本物かどうか不明であるが、裁判所は眞實であるとして認定してゐる。
  昭和十七年十一月二十七日、日本政府は「華人勞務者内地移入に關する件」と題する閣議決定により、中國人勞働者を日本國内に移入して勞働力不足を補ふ政策を採用した。その閣議決定に基き、昭和十九年二月二十八日、「華人勞務者内地移入促進に關する件」と題する次官會議決定がなされ、中國人勞働者を毎年度國民動員計畫に計上して、計畫的な移入を圖ることになつた。
  この動員計畫による華人勞働者の供出又はその斡旋は大使館現地軍竝びに國民政府(華北よりの場合は華北政務委員會)指導の下に現地勞務統制機關(華北よりの場合は華北勞工協會)にあたらせることになつてゐた。三萬人の中國人勞働者の供給を計上して、結局昭和十九年三月から昭和二十年五月までの間に三萬七千五百二十四人の中國人が日本内地に移入された。
  私は、この裁判所の認定を正しいとも誤りとも判斷できない。むしろ後述のやうな國會における政府答辯や、すでに前囘まで何度も述べたやうな我が國の裁判所一般の判斷をみると、裁判所の判斷は信用できないのではないかと思ふ。 右外務省報告や中國人勞働者の動員の正確な事實について偏つてゐない專門家の御教示をお願ひしたい。
  劉が北海道において發見保護された後の日本政府の對應と劉およびその支援者のやりとりが判決中に述べられてゐるので、略述する。

  @昭和三十三年三月十二日、衆議院外務委員會において、當時の岸信介總理大臣は、劉が發見されたこと、同人が明治鑛業株式會社で勞働してゐたことを確認してゐること、政府として同人を適當な引揚船により中國へ歸國させる手配をしてゐることを答辯し、さらに同人の日本での苦勞をねぎらふ發言をした。
  A同年三月二十五日、衆議院豫算委員會において、板垣修アジア局長は中國人勞働者の名簿については終戰後のどさくさで原本は燒却したか紛失したかしてない旨答辯した。
  B同年四月九日、衆議院外務委員會において、岸首相は、中國人勞働者強制連行の事實の有無についての質問に對して、「政府として当時の事情を明らかにするような資料がなく、強制連行の事実を確かめる方法がない、中国人連行の政策を決定した閣議決定の趣旨は中国人を強制連行するという趣旨ではなかったが、事実問題として強制連行の事実が存在したか否かを確かめるすべはない、政府としては責任を持ってその事実を明らかにすることはできない」といふ趣旨の答辯をした。また、外務省報告書については、松本瀧藏政府委員が「それが存在していること自体は承知しているが現在外務省には残っていない」旨の答辯をした。劉に對する慰勞の具體的手段については、岸首相は、政府として約十三年間の逃走生活で強ひられた苦勞を認め、人道的な立場から日本滯在中は十分な待遇を行ふ意向を明らかにした。
  C同年四月十日、劉は、中國に渡航する豫定となつてゐたが、その二日前に支援者によつて集會が開催され、劉も出席したゐたところ、當時の愛知揆一内閣官房長官から、日本での勞苦をねぎらひ、歸國の手配をしてゐるといふ趣旨の手紙と現金十萬圓を渡されたが、受領を拒否し、翌九日、日本政府が負ふべき責任を負はない態度をとつてゐることへの非難を内容とする抗議聲明文を日本政府に提出した。

  以上の經過からみると、裁判所が事實認定の根據にした外務省の報告書は劉が發見された當時外務省には存在しなかつたことがわかる。今囘原告側が提出したこの報告書が新たに發見されたものかどうか判決からはわからない。また、岸首相が、中國人連行の政策を決定した閣議決定の趣旨は中國人勞働者を強制連行するといふ趣旨ではないと答辯してゐることからすると、別の法的解釋がなりたつのではないかとも思はれる。


  劉は、昭和三十三年四月十日、中國に歸國した。平成三年、日本のテレビ局の招待で來日して取材を受けた。その際、劉は、日本政府に對して、謝罪、損害賠償、記念物建設の要求をしたが、日本政府は何らの對應もしなかつた。
  平成五年、日本社會黨の委員長が訪中した際、日本政府への要求書を出したが、日本政府は何の應答もしなかつた。
  平成六年、劉は、日本の辯護士に會ひ、訴訟提起を示唆され、平成八年本件訴訟を提起した。ところが、劉は、平成十二年九月二日死亡したので、本件請求は、劉の妻、長男長女の三人が本件訴訟を承繼した。
  本件訴訟も、日本の辯護士や戰後補償を推進してゐる者によつて起されたものであることがわかる。


(2)法律的な主張
  裁判所が要約した原告等の法律的な主張は次のとほりである。


1 国際法あるいは国際慣習法に基づく損害賠償請求権について
  @ハーグ陸戦条約三条に基づく損害賠償請求権の成否
  A強制労働条約違反に基づく損害賠償請求権の成否
  B奴隷条約及び国際慣習法としての奴隷制禁止違反に基づく損害賠償請求権の成否
  C人道に対する罪違反に基づく損害賠償請求権の成否
2 法例一一条により準拠法となる中国民法に基づく損害賠償請求権の成否について
  @本件の強制連行、強制労働の法律関係が国際私法の対象となると言えるか。 (本件の強制連行、強制労働の法律関係が公法的法律関係か私法的法律関係か。)
  A本件の強制連行、強制労働の法律関係が法例一一条にでいう「不法行為」にあたると言えるか。
  B本件の強制連行、強制労働につき法例一一条二項の適用があると言えるか。 (本件の強制連行、強制労働につき「国家無答責原則」の適用があると言えるか。)
  C本件の強制連行、強制労働につき法例一一条三項による民法七二四条後段の適用があると言えるか。
3 安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の成否について
  @原告の主張する安全配慮義務違反が具体的に特定されていると言えるか。
  A本件の強制連行、強制労働につき安全配慮義務の前提となる「特別の社会的接触の関係」があると言えるか。
4 戦前の民法のもとで本件の強制連行、強制労働につき被告が損害賠償責任を負うと言えるか(国家無答責の法理が認められるか)。
5 国家賠償法に基づく損害賠償請求権の成否について
  @被告が、先行行為に基づく救済義務を負っていたと言えるか。
  A被告が、安全配慮義務に基づく救済義務を負っていたと言えるか。
  B被告が、国際法上の違法状態を解消する義務として救済義務を負っていたと言えるか。
  C国家賠償法六条の相互保証の適用があると言えるか。
6 民法七二四条後段の適用の有無について
  @民法七二四条後段の法的性格は時効か除斥期間か。
  A民法七二四条後段の期間の起算点はいつか。(平成七年三月を起算点とすることが認められるか。)
  B除斥期間の適用制限が認められるか。
7 立法不作為に基づく損害賠償請求について
  被告が原告らを始めとする被害者に対する救済立法の制定をしなかったことが違法であると言えるか。



(3)裁判所の判斷
  裁判所が要約した原告側の法的主張は、私が今までこの連載で述べてきた各種の事件におほむね共通してゐるものである。
  1の「国際法あるいは国際慣習法に基づく損害賠償請求権について」は、すべて認められないとした。
  1の@、ハーグ陸戰條約三條については、本誌平成十四年十月號で述べた。本件判決の判斷は極めて詳細であるが、結論部分のみを摘記する。


  用語の通常の意味に照らした解釈、事後の実行に照らした解釈及び条約の起草過程に照らした解釈で検討した結果によれば、ハーグ陸戦条約三条は、交戦当事国である国家が、自国の軍隊の構成員によるハーグ陸戦規則違反の行為につき、相手国に対し損害賠償責任を負うという、加害国と被害国間の権利義務関係について定めたものと解すべきであり、同条が国内法的効力を有するとしても、被害国の被害者個人の加害国に対する損害賠償請求権を創設したものとは言えないから、原告らの主張するような損害賠償請求権の存在を根拠付けるものとは言えない。
  そして、原告らは、ハーグ陸戦条約三条が被害者個人の損害賠償請求権を認めているとの解釈を前提に、同条によって具体化された国際慣習法に基づく損害賠償請求権の存在を主張しているものであるが、上記のとおり、ハーグ陸戦条約三条は被害者個人の損害賠償請求権を認めていないと解される以上、その余の点について判断するまでもなく、原告らの主張は採用できない。



  1のAの強制勞働條約違反、それとBの奴隸條約及び國際慣習法としての奴隸制の禁止違反に基く請求について、個人の損害賠償請求權を求める法的根據がないとした。
  1のCの人道に對する罪違反に基く請求について、これは、私が今まで述べて來た判例の中でははじめての主張であるので、若干觸れる。東京裁判において人道に對する罪違反の行爲の責任が問はれた。これは、極東軍事裁判所條令が人道に對する罪といふ犯罪を創設したからである。本件の強制連行の立案者は日本政府の指導者であり、劉はその犧牲者である。その結果、立案者は、人道に對する罪を犯したものとして刑事責任を負ふが、その使用者つまり日本政府は使用者責任といふ民事上の責任を負ふ、といふのが原告側の主張である。
  裁判所は、國連總會が、「ニュルンベルグ裁判所條令によつて認められた國際法の諸原則」を確認する決議を全會一致で採擇して以降は、人道に對する罪が國際法上の犯罪として處罰の對象とされることが國際的に承認されるに至つたと認定したが、これはこの犯罪を犯した者個人に對する刑事處罰だけであり、その者が所屬する國家に對する個人の損害賠償請求權が認められたものではないと判斷した。
  しかし、戰後補償を求める者は東京裁判までも援用しようとしてゐるのに注意すべきである。


  2の法例十一條により準據法となる中國民法に基づく損害賠償請求権の主張及びそれに對する裁判所の對應については、本誌平成十四年十月號で述べた。本件でも同號で述べた中國人損害賠償請求事件の判決よりも法的な部分は詳細に、その他の事實關係についてはきわめて簡潔に、全體として明確に原告側の請求を否定した。それを略記する。


  本件の甲太郎(判例集に記載されてゐる劉の匿名)に対する強制連行、強制労働の法律関係が国際私法の対象となると言えるのか。(強制連行、強制労働の法律関係は公法的法律関係か私法的法律関係か。)
  国際私法は、特定の国家法を超越した国際市民社会の共通法ないしは普通法としての私法が存在するとの前提から、そのような国家を超えて生ずる国際的、渉外的私法関係に適用されるのに対し、国家の利益と密接な関係を有する公法の領域では、特定の国家利益を超えた普遍的な価値に基づく国家法を想定することはできないから、公法的法律関係は、国際私法の適用の対象とはならないと解される。
  以上のような観点から本件をみると、……被告が……甲太郎を……強制的に労働に従事させたのは、……被告の国策の一環として行われたものであることが明らかであり、当時の被告が自らの国益のために、自らの権力作用そのものとして行った行政作用で、極めて公法的色彩の強い行為にあたるというべきであり、このような行為は、国家主権と密接な関係を有しているから、特定の国家法を超越した国際市民社会の共通法ないしは普遍法としての国際私法の規律にかからしめることには無理があると言わざるを得ない。
  ……
  本件の甲太郎に対する強制連行、強制労働が法例一一条一項でいう「不法行為」にあたると言えるか。
  ……
  法例一一条一項の「不法行為」は、違法な行為によって他人に損害を与えた者にその損害の賠償をさせるものであって、社会生活において生じた損害の公平な分担をさせる制度にであるのに対し、公権力の行使に対する国家賠償については、各国の現行の国家賠償法をみても明らかなとおり、その要件や適用除外の有無等に違いがあり、また、相互保証主義の規定が設けられているなど、各国の国家的利益を優先させていることが認められ、その意味で、損害の公平な分担を目的としている制度とすることは困難であり、公権力の行使に対する国家賠償の問題を法例一一条一項の「不法行為」の問題として扱うことはできないと解すべきである。



  以下他の爭點については次號。




東京地裁平成十三年七月十二日民事第十四部判決、判例タイムズ一〇六七號百十九頁。


(本文は『月曜評論』誌平成十五年三月號掲載論文の元原稿です。掲載時のシリーズ名は「戰後最惡の判決」。三月號第九囘の主題は「中國人強制連行國家賠償請求事件」でした)