最近の歴史觀をめぐる判決について(三)



                               辯護士  高池 勝彦




4、判決の構成(續)


   前囘に續いて、中國人被害者損害賠償事件の判決について述べる。


(八)次に、二十一ヵ條の要求についてふれ、ロシア革命、アメリカの禁酒法、シベリア出兵、その他ヴェルサイユ講和會議の經過を述べてゐる。それから國際聯盟の成立、尼港事件、また、スターリン、ムッソリーニその他詳細な事項の列擧が始り、中國について第一次國共合作などの記述の後、「北京政変により孫文「北上宣言」、この北上前、孫文が日本に寄り(日本の政治的財政的援助を取り付けようとしたが、日本政府は「赤化した」孫文の上京すら許さなかった。)、神戸で「大アジア主義」の講演、アメリカで排日移民法成立」といつた項目が續く。
   孫文が日本に寄つた際、「日本政府は「赤化した」孫文の上京すら許さなかった。」など、當時の我が國政府が「進歩的」な孫文に敵對的であつたといふつもりかもしれないが、孫文が當時どのやうに見られてゐたのか、裁判所はわかつてゐない。孫文が中國を代表するかどうかは未知數であつたのである。要するに我が國の惡口であれば何でも書いておかうとするあらはれである。
   引用しなかつたが、ヴェルサイユ講和會議の經過に關聯して、「「一四か条」を提唱したウィルソン大統領がリードする会議で、「公理」が踏みにじられ、大国日本の「強権」が罷り通ったことが「戦勝国」の中国国民に伝わると、未曾有の反日運動である五四運動が勃発した。」なども裁判所の自國に對する惡意のあらはれである。その反面、ヴェルサイユ講和會議において我が國が國際聯盟の憲章中に人種平等條項を盛込むやう努力したことにはまつたくふれてゐない。
   それから、「済南事変勃発(北伐により済南を占領した蒋介石軍と日本軍が衝突。戦闘が拡大したのは、日本軍及び日本政府の傍若無人な対応が原因であったが、日本では軍部等に迎合するマスコミによって、日本側の被害が誇大に発表報道され、そのころから「暴支膺懲(ぼうしようちょう・横暴な支那(人)を膺ち(うち)懲らしめる)」という排外主義が全国民的に巻き起こった。日本を「一等国民」、中国を「三等国民」と見る気分が我が国全体に蔓延するようになった。そのような日本国民の中国国民に対する意識が、中国における侵略行為、戦闘に際して、軍部及び軍人等の中国国民に対する殺戮、略奪、捕虜虐待、破壊行為、婦女暴行等の一つの大きな原因となっていたものといわざるを得ず、いわゆる「南京虐殺」もそのような日本兵の中国国民に対する民族差別意識を基盤としてされたものというべきである。)、張作霖の爆殺」と續き、さらに延々と事件が列擧される。(百四頁)
   「南京虐殺」が日本人の中國蔑視思想から生じたなど、かりに南京虐殺があつたとしても何の根據があつてこのやうな斷定ができるか、裁判所の傲慢さをみることができる。
(九)それから、アメリカ大恐慌發生、オランダ領インドネシアでスカルノらの逮捕、その他中國や歐米の事項が列擧され、蘆溝橋事件の開始に至る。「両国の宣戦布告がないので、わが国では「日華事変」と称した。当時の日中間の戦闘等につき、例えば「満州事変」「上海事変」などと「事変」との表現が当時も現在も使用されることがあるが、実相はわが国が他国の領土で展開した「戦争」ないし「侵略行為」にほかならないといえる。」
   それから、蘆溝橋事件から、中國共産黨が、全國軍隊の總動員宣言したなど、中國軍内部の動きが記述され、「その間に、通州において、傀儡政権の部隊と思って油断していた中国の保安隊が反乱を起こし、少数の日本軍守備隊と日本人居留民約二〇〇人を殺害し、「通州の大虐殺」としてわが国で大々的に宣伝された。」その後の中國の情勢、ヨーロッパの情勢に關する事項が列擧され、日本軍の南京占領に至る。(百五頁)
   この通州事件の記述の冷靜さ(冷淡さ)はどうだらう。「傀儡政権の部隊と思って油断していた中国の保安隊が反乱を起こし、少数の日本軍守備隊と日本人居留民約二〇〇人を殺害し、「通州の大虐殺」としてわが国で大々的に宣伝された。」など、油斷した方が惡いといはんばかりか、「通州の大虐殺」として大々的に宣傳された、などといふ記述は、大虐殺ではないのに、大々的に宣傳したといひたいのであらう。
(十)「日本軍及び日本兵はその戦闘により多大の損傷を受けた上で、心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま、一一月二〇日南京追撃が指令され、正式な命令のないまま強行された南京攻略は、日本国民の期待とあいまって、一二月一日正式に決定された。南京の特別市の全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さで、一一月末から事実上開始された進軍から南京陥落後約六週間までの間に、数万人ないし三〇万人の中国国民が殺害された。いわゆる「南京虐殺」の内容(組織的なものか、上層部の関与の程度)、規模(「南京」という空間や、虐殺されたという期間を何処までとするか、戦闘中の惨殺、戦闘過程における民家の焼き払い、民間人殺害の人数、便衣兵の人数、捕虜の人数、婦女に対する強姦虐殺の人数)等につき、厳密に確定することができないが、仮にその規模が一〇万人以下であり(あるいは「虐殺」というべき事例が一万、二万であって)、組織的なものではなく「通例の戦争犯罪」の範囲内であり、例えばヒトラーないしナチスの組織的なユダヤ民族殲滅行為(ホロコースト)と対比すべきものではないとしても、「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである。南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(……政治的意図をもって、その当時及びわが国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、「南京虐殺」自体がなかったかのようにいうのは、正確な調査をしようとせず、「南京」の面積と当時の人口が小さいとし、結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証拠がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)。」(百五頁)
   この南京事件の部分は、その傲慢さと居丈高さ、中國共産黨政府の代辯といふ點で、前號の(三)で述べた、我が國の中國に對する行爲が、「中国及び中国国民に対する弁解の余地のない帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」であることは、「疑う余地がない歴史的事実」であり、「この点について、わが国が真摯に中国国民に対して謝罪」し、「日中間の現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるに際して、……わが国がさらに最大限の配慮をすべきことはいうまでもないところである。」と双璧をなすものである。
   この南京虐殺について、「全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さ」の南京特別市といふ觀念を突然持出してきた。從來は南京虐殺が南京城内およびその近郊に事件であることが前提になつてゐた(上海から南京まで全てを含むといふ者もゐるが)。
   今まで「南京特別市」といふ言葉が裁判に登場したことはなく(注一)、學説としても珍しく、笠原十九司教授の著書(岩波新書『南京事件』)が初めてではないかとのことである(注二)。
   同書には「本章の扉裏の地図にあきらかなように、南京特別市の行政区には、六合、江浦、江寧、殺水、句容、高淳の六県がふくまれていた。南京特別市の全面積は、日本の東京都と埼玉県・神奈川県を合わせた広さにほぼ匹敵する。」とある(注三)。他に出典がないと思はれるので、判決は、きはめて特異な出典を資料批判することなく鵜呑みにして採用したのであらう。
   南京特別市といふのは當時の中國の六つの特別市の一つであるが、笠原教授の右著書を除けば、この南京特別市が右六縣を含む廣い地域を指すといふ當時の文獻は、みあたらないといふことである(注四)。
   右六縣は、有名なスマイスの調査の内、農業地域の調査が行はれた地域であり、「南京周辺に集合して一つの自然的・伝統的単位をなしている六つの県を網羅しようとした」とは述べられてはゐるが(注五)、南京特別市に右六縣が含まれるのであれば、そのやうな言及があつてもよいのにない。スマイスの調査では、南京市の調査と農業調査とわかれ、後者について南京特別市に屬するといふ表現はまつたくなく、常に「六つの県」とか何々縣とか表現されてゐる。
   笠原教授の右著書には、上に引用したやうに、「本章の扉裏の地図にあきらかなように」とあるので、同書の第三章の扉裏をみると、「南京行政区の概略図」とタイトルがあり、右六縣を含む地図が掲げられ、出典として「洞富男編『日中戦争 南京大虐殺事件資料集2 英文資料編』による」とある。
   そこで、右資料を當つてみると(注六)、「南京行政区の概略図」といふものではなく、「寧属区域農業調査図」とあり、その調査圖から損害に關する項目を削除しただけの圖である。これが南京行政區を表し、南京行政區とは南紀特別市のことであるといふことを示す表現はまつたくない。
   したがつて笠原教授がどのやうな根據で右六縣を南京特別市に含ませたのか不明であるが、今のところ南京特別市は右六縣を含まない通常の南京市を指すと考へる他ない。それなのに判決は根據も示さないで、南京特別市には右六縣が含まれると即斷してゐる。これは、城内での南京虐殺がなり立たないので、その印象を薄めようとするために持出したと思はれる。しかし、いづれにしても右六縣の多くは、南京の外廓陣地のさらに外側であり、一部を除いて、戰鬪がなかつた場所であるから、この廣い地域で大虐殺が行はれたとするのは無理である。
   ついでに、笠原教授の右岩波新書『南京事件』の私が言及した第三章の扉裏の表、つまり第三章の扉表には「V 近郊農村で何が起きたか」といふタイトルの下に寫眞が掲げられ、その下に「日本兵に拉致される江南地方の中国人の女性たち.国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊行)所載」といふ説明が附けられてゐる。
   この寫眞は、實は日本兵が中國女性を拉致してゐる寫眞ではなく、朝日新聞社發行の『アサヒグラフ』昭和十二年十一月十日號と翌年三月號に掲載された、平和がよみがへる中國の農村を寫した寫眞であつたのである。寫眞の説明は「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子の群」「夕になれば白一面の棉の花畑から嬉々として我が家に歸る」などの説明が附けられ、寫眞に寫つてゐる女性や子供達も白い齒を見せてにこにこ笑つてゐる鮮明な寫眞である。
   笠原教授の本は(多分中國本も)、寫眞全體をぼやけさせ、女性の背中に背負つてゐる籠などを削るなどのトリミングをほどこしてゐる。平成十年二月二十八日の産經新聞で、その旨指摘され、笠原教授は、アサヒグラフの寫眞の方がやらせである可能性があると居直つたのである。しかし、同年四月九日に至つて、笠原教授と岩波書店は、誤りを認め、この本の出荷を停止し、購入者から申出があつた場合にのみ寫眞を差替へた本と交換することとしたとの記事が産經新聞に報道された(注七)。この本はニセ寫眞を使用したとして有名になつた本である。もちろん裁判所はそのやうなことを露知らず南京特別市について述べたのである。
(十一)この後、ドイツのユダヤ人虐待、その他澤山の事件の記述や、七三一部隊についての記述、原爆投下、我が國の降伏、インドネシアの獨立宣言、ミズーリ艦上での降伏文書の調印、ヴェトナム獨立宣言、ラオス臨時政府樹立に至るまで、近衞内閣の政策から、ノモンハン事件、チャーチル内閣の成立、ヴィシー政權の成立、アメリカの平時選拔徴兵法の成立など、判決原文では約九頁に亙つて、さらに詳細な歴史的事項の列擧が續く。
   その中には次のやうな記述もある。「六月四日ミッドウエー海戦で日本軍敗北(以来日本軍は太平洋での制海権制空権を失う。この時点までの我が国の南方進出はほとんどの戦闘で圧勝し、破竹の勢いで東南アジア全域と、東太平洋に広大な支配地域を築いたが、統治のヴィジョンを欠き、ミッドウエー海戦での敗北以来、結局、我が国本位の支配しかできず、次第にほとんどのアジア人からも嫌われるところとなり、一九四五年の敗戦に至るのである。)。」(百六頁)
   この最後の「ほとんどのアジア人からも嫌われるところとなり」など、例によつて何を根據に斷定してゐるのか。
   我が國の降伏については、形式的には條件付降伏であるが、「実質的にはほぼ無条件降伏に近い内容というほかない。本裁判においてポツダム宣言の受諾が無条件交付というのは、その趣旨である。」と述べてゐる。
(十二)それから、昭和二十一年一月一日の天皇の詔書から、ケネディ暗殺や中國の國聯加盟、一九七九年のソ聯のアフガニスタン侵入まで、を含む判決原本では八頁に亙つて、詳細な事項の列擧が續く。その中で、我が國とドイツとの戰後處理の比較をやや詳しく行つてゐる。(百七頁)
   判決は、ドイツの戰後處理がホロコーストの犧牲者個人についてのであるのに對し、我が國の場合は、國家としてアジア諸國に對する賠償と、經濟援助を行つてゐることを指摘してゐる。この指摘は正當であるが、我が國がドイツと異る戰後處理をしたことについて判決は、「自主的に選んだのか、当時の我が国及びこれを取り巻く政治経済その他諸般の事情によって、そのような解決しかできなかったのか、必ずしも明確でない。」と、わけのわからない記述をしてゐる。戰爭終結後、講和條約を締結し、國家間で戰後處理をはかるのは通例で、ドイツの方こそ異例である。ドイツは國家が崩壞し、かつユダヤ人にたいするホロコーストの處理が優先したために、むしろやむを得ず、個人補償したのであり、國家間の處理はいまだになされてゐないのである。
   また、我が國が戰後處理として國家間で賠償を支拂つたのは、アジア諸國に限らない。たとへばオランダに對しても我が國は賠償してゐる。
   この判決が一般の圖書や新聞を多數證據としてあげてゐることは第一囘に述べたが、この部分では、「以上につき、例えば岩波新書・藤田久一「戦争犯罪とは何か」、毎日新聞平成一一年八月二六日朝刊中の「冷戦終結一〇年第一部・壁が消えてーベルリン復活B」、文春文庫・西尾幹二「異なる悲劇日本とドイツ」など参照。」と書かれてゐるのであるから、西尾氏の本をしつかりと讀んでもらひたかつた。
(十三)その後、「以降の歴史は、それまで以上に複雑であり、省略することとするが、……我が国周辺においても平和が確立しているわけではなく、そのような全地球的な混乱について、欧米の植民地主義、帝国主義的進出と恣意的な現地の分割統治(アフリカにつき顕著である。)にも大きな責任があり、一九四五年の降伏に至るまでの我が国の右欧米を模倣した大義名分のない外国進出にも相当の責任があるというべきであろう。我が国の前記のようなアジアにおける侵略行為が、結果としてアジア諸国の独立をもたらした重要な契機となっているとしても、そのことをもって、右敗戦に至るまでの間に我が国がアジアの人々に対してした多大の侮辱的行為や侵略的行為について、我が国は、今後も反省し続け、将来にわたるアジアの平和と発展に寄与すべく最大限の努力をしなければならないというべきであり、これを否定することはおよそ許されないというべきである。」(百八頁)
   「全地球的な混乱について、……一九四五年の降伏に至るまでの我が国の右欧米を模倣した大義名分のない外国進出にも相当の責任がある」など、これまた判決の一方的な決めつけであり、大東亞戰爭が、結果としてであれ、アジア諸國ばかりではなく、全世界の植民地の獨立を促したことは素直に誇つて良いことであると私は考へるが、判決は反對である。
   うがつて考へれれば全地球的な混亂とはこの植民地の獨立のことを指し、それなら我が國の貢獻であり、それを判決は面白くないと考へてゐるかもしれない。
(十四)この後は、ヘーグ陸戰條約をはじめとして國際法についての詳細な記述があつて、結論として、「以上のとおりであるから、ヘーグ陸戦条約三条、国際慣習法,法例一一条一項を介しての本件当時の中華民国民法に基づき、本件加害行為について個人として直接わが国に対して損害賠償を求める原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも結局認容することができないといわざるを得ない。」(百三十七頁)この最後の部分だけが判決としては必要なのである。


   この結論に至る過程を次號に要約して述べてみたい。この部分も詳細かつ長大なものであるが、將來述べることになる大東亞戰爭や「植民地支配」に關聯して外國人が我が國に對して直接損害賠償を請求する場合の判決と比較して結論を含めてそれほど奇異ではない。ただ、論點にかはつた點があるといふことと、やはり少し長過ぎるのではないかといふこと、それに論理の運びにもたつきがある印象を持つた。


   今まで、判決の事實の摘示(本件に関する基本的な事実関係)について述べるに當つて、一方的な歴史觀を述べてゐるとか、歴史解釋が獨善的であるとか、傲慢であると批判してきたが、これは買ひかぶりかもしれない。引用部分でもわかるやうに、この判決を書いた裁判官は確信的な左翼思想の持主といつたものではないやうに思へる。なぜなら、文體が高校生の夏休みの宿題のレポートのやうであり、主體性などなく、アメリカ占領政策によつて洗腦された知識、朝日新聞を始めとするマスコミや日教組の戰後教育による知識などを總動員して、一生懸命書き上げたといふ感じがするからである。
   引用しなかつたが、火野葦平の「土と兵隊」とか石川達三の「生きている兵隊」にもかう書かれてゐるとか、隨所に幼稚な敍述とここまで調べましたよといつて、左翼的な先生にほめてもらひたいといつた印象が見られるのである。さうすると、「右敗戦に至るまでの間に我が国がアジアの人々に対してした多大の侮辱的行為や侵略的行為について、我が国は、今後も反省し続け、将来にわたるアジアの平和と発展に寄与すべく最大限の努力をしなければならないというべきであり、これを否定することはおよそ許されないというべきである。」といつた意見も高校生的な、無責任に思ひ詰めたものではないかといふ氣がしてくる。
   しかし、これで國の重大な政策にかかはる問題を判決といふ形で國民に提示することは重大な誤りである。
   この判決を書いた裁判官は、伊藤剛、本多知成、林潤の三人であるが、裁判長は伊藤裁判官である。判決は通常、裁判長の強力なリーダーシップのもとで書かれるのでこの判決の責任者は伊藤裁判官である。伊藤裁判官は、この判決を書いた功績(?)からか、判決直後、靜岡家庭裁判所長に榮轉し、最近體調を崩したとかで、定年前に裁判官をやめ、公證人になつたとのことである。



注一 もつとも裁判で南京事件が少しでも話題になつた例は少ない。私の知る限り、少しでも議論がなされたのは、家永訴訟(判例時報一四七三號)と東裁判(東京地裁判決判例時報一五八二號六六頁、東京高裁判決一七〇六號二二頁)、それに今問題にしてゐる中國人の國家賠償事件だけである。訴状の中で南京事件にふれたのはもつとあるが、南京事件についての議論はなされず門前拂ひの裁判が少なくない。その例として教科書を守る親子の會が起した教科書檢定無效事件などがある(判例時報一二六八號五八頁、判例時報一四四八號一二〇頁)。
注二 阿羅健一、松村俊夫兩氏の御教示による。
注三 同書平成八年十一月二十日第一刷、同年十二月十五日第二刷、八十二頁、ただし、縣名に振つてあるルビを省略。
注四 阿羅氏や原剛さんの御教示による。
注五 次注『資料集2』二百三十二頁。
注六 洞富男編『日中戦争 南京大虐殺事件資料集2 英文資料編』は昭和六十年十一月一日青木書店發行。この本は、もともと『日中戦争史資料』9「南京事件」Uとして昭和四十八年十一月三十日に河出書房新社より發行されたものを訂正、増補したものである。この地圖については兩書とも二百七十六頁にあり、まつたく同一である。
注七 笠原教授と岩波書店の謝罪と辯明は、岩波書店『図書』平成十年四月號二十六頁に掲載されてゐる。




(本文は『月曜評論』誌平成十四年九月號掲載論文の元原稿です。掲載時のシリーズ名は「戰後最惡の判決」。九月號第三囘の主題は「高校生のレポート竝の文章」で、副題は「“南京問題”を通して知る裁判官の歴史認識」でした。)